展示室の最後には映像室がありました。ここで流されていた「武寧王」の紹介ビデオとパンフレットの解説を使って、彼の生涯を辿っていることにしましょう。 | ||
ビデオに登場した想像上の武寧王 |
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『百済25代武寧王(462−523)。名前は斯麻、又は隆。「三国史記」によると百済24代東城王(479−501)の二男。「日本書紀」によると、倭の加唐島生まれで東城王の異母兄。異説では21代蓋鹵(こうろ)王(455−475)の息子。501年に40歳で即位し、523年(癸卯年)に62歳で亡くなるまでの在位23年間、百済中興の土台を築いた。』
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『1971年、排水路の工事中に偶然発見された武寧王陵は、墓室全体が煉瓦を積み上げて作られた煉瓦墓で、入り口通路に当る羨道と遺体を安置する玄室で構成されている』。
盗掘を免れて発見された、青銅鏡・金製の冠装飾・金バイクなど豊かな副葬品は、「百済の古墳は質素であると言う定説を覆したと」も言われています。 |
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『最も重要な遺物の一つは、崩御年や生前の名前などが記録された墓誌石で、これは「日本書紀」の記述とも一致している。墓誌石により古墳の主人公が特定されただけでなく、各歴史書の記述の正確性が証明されるなど史料的価値が高まった。』 | ||
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『彼は日本に先進の文化を伝えた。』と言う画面の後に、両国の古墳や遺跡から発掘された品々が次々に写されます。履(クツ)、剣の柄頭、アクセサリーなど特徴的な遺物を、左右に並べて紹介していました。画像はイヤリングで、向って左が武寧王陵から、右が日本の古墳からの出土品です。
ビデオを見ていて驚いたのは、『王と王妃の棺は、日本の高野山でしか生育しない高野槙で作られていた』と、画面に高野槙が出てきたことでした。韓国にも槙がないわけではないでしょうに、何で日本の木材を使ったんでしょうね、不思議。 |