多賀城正殿跡から目を南に転じると、向かいに木立に囲まれた小さな丘が見えています。そこに建つのが、歌枕では「壷碑」として有名な多賀城碑。近づいてみると小さなお堂があり、石碑はその中に収められていました。と言うより、風雨から碑文を守るため覆い屋が建てられた、と言うほうが正確かな。 |
石碑はこのお堂の中 |
新幹線の車内誌に、グッドタイミングでこの石碑の記事がありました。碑文の中に靺鞨(まっかつ)の字が見えると知り、実物が見たくてやってきたのですが、お堂の中は暗くて碑文が良く読めません。デジカメで撮って加工してみたのですがやはり判読しにくかったので、ここでは歴史博物館にあったレプリカを載せました。
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多賀城、京を去ること1500里
蝦夷(えみし)の国境を去ること120里 常陸(ひたち)の国境を去ること412里 下野(しもつけ)の国境を去ること274里 靺鞨(まっかつ)の国境を去ること3000里 |
博物館にあった壷碑レプリカ |
靺鞨とは中国東北部、かつて満州と呼ばれていた地域を指します。8世紀に靺鞨を治めていたのは渤海で、多賀城建造直後の727年、渤海の使節団が平城京に入っています。東アジアの中で孤立気味だった8世紀の日本と、唯一正式な国交を結んでいたのが渤海。常陸や下野と言う身近な地域と並べて靺鞨と刻む、この碑文からも当時の朝廷の渤海への思い入れが、1300年の時を越え伝わってくるようです。
5月に出かけた中国の満州編でも、渤海のことを少し触れていますので是非ご覧下さい。 |