『年末の「第九」のことの起こりは昭和18年。東京音楽大学(東京芸術大学音楽部)の奏楽堂で行われた、出陣学徒壮行の音楽会と言われています。
太平洋戦争の状況が悪化する中、法文系学生で満20歳に達した者へも徴兵令がくだりました。彼らは入営期限を間近に控えた12月の初旬、繰り上げ卒業式の音楽会で、「第九」の第4楽章を演奏したのです。 出征した者の多くが戦死し、やがて太平洋戦争も終わりました。生きて帰ってきた者達の中で、奏楽堂の別れの際に演奏した「第九」を再び、と言う声があがり演奏の運びになりました。暮れの「第九」の出発は、戦場に散った若き音楽学徒への鎮魂歌(レクイエム)だったのです』。 |
ドイツ館、俘虜収容所での「第九」演奏会のジオラマ |
『その後日本経済の復興とともに、オーケストラ団員の越年資金を得るために、年末に「第九」が演奏されるようになり、しだいにそれが定着していったと思われます』と、15回記念講演時に配布された「なるとの第九」には書かれていました。詳細はこの冊子を企画編集・発行しました鳴門市文化会館にお問い合わせ下さい。
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