印通寺(いんどうじ)港で出迎えてくれた「壱岐i(あい)ランド」の占部さんの了承を得、無事便乗させてもらえることとなりました。挨拶もそこそこにお目当ての原の辻(はるのつじ)遺跡へ直行・・・、するのかと思いましたら突然車が止まりました。促がされるまま道路より数メートル小高くなったマウンドへ登ると、そこはグルリを山に囲まれた盆地のど真ん中。 | |||||||||||||
海の王都「原の辻(はるのつじ)遺跡」 ホールに掲げてあった航空写真の一部 |
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「あちらに青いビニールシートが見えますね。あれが、1.1m以上の柱の跡が見つかった祭儀場跡で、左手の山すそに見えるのがこれから向かう展示館です」と教えてくれました。指先を追って右から左へと視線を動かしていると、「この周辺一体が王都があった場所なんですが、結構広々としているでしょう。ここは長崎県では2番目に広い平野なんですよ」と言葉が続きます。
地図で見ると小さな島なのに、県下2番目の平野を持つなんて驚きです。明日向かう対馬は平地が2%しかないのに、壱岐は全面積の32%が平地なのだとか。両島に渡ってみて、それが集落の形成に大きな意味を持つことが良くわかりました。 |
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『国特別史跡”原の辻遺跡”:三世紀の歴史書魏志倭人伝には一支(いき)国の名で登場。卑狗(ひこ)・卑如母離(ひなもり)と言う長官と副長官がいて、島の広さは四方300里ばかり。3000ばかりの家があり田畑はあるが食料は足らず、対馬国と同様海を渡って穀物を買い入れ生活している、と記述されています。 | |||||||||||||
展示館前に復元された弥生住居 |
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平成5年度以降に行われた本格的調査により、弥生時代の多重環濠集落で「一支(いき)国」の中心となる王都であると判明。平成12年11月には、弥生時代の遺跡としては登呂遺跡(静岡県)、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)に次いで、国の特別史跡に指定されています。』
−展示館の前の解説版から抜粋− |
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