『白村江の戦いで唐・新羅軍に敗れた百済・日本連合軍。本土侵攻を予想した朝廷は、非常事態に備え福岡にあった那の津の官家(みやけ)を大宰府に移したことから、大宰府政庁は始まったとされている。 − パンフレットより 』
自然地形を巧みに利用して山城・水城を築き、周辺地域を大きく取り込んだ要塞「大宰府羅城」。太宰府と聞くと、菅原道真公を祀った天満宮が連想されますが、白村江の敗戦はその前身”大宰府政庁”が、国防の最前線として誕生した瞬間でもありました。今でも人の胸を打つ防人の秀歌、その舞台となった場所でもあります。 |
姫を守る騎士のような、背後の山の姿が印象的でした |
今も発掘調査が続けられている(昭和43年開始)「政庁跡」は、全域が史跡公園になっています。『北に玄武の山・東に青龍の流水・西に白虎の街道・南に朱雀の池や沢があること』という風水の立地条件に適った、宗教的な防衛都市「大宰府政庁」。礎石を並べ平面復元された遺構を、南門から回廊を通って正殿へ、「大君の遠の朝廷」と歌った万葉人を偲びながら、何度も何度も歩いてみました。
風水説を参考にはしていないでしょうが、この「宗教的防衛都市”」いう言葉を見ると、カンボジアのアンコール・トムを連想してしまいます。 |