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 さてもう一度扶余の地図を見て見ましょう。北東から流れ来た白馬江が大きくカーブして南東に向う、そんな白馬江に張り出すような位置に扶蘇山城はあります。三方に白馬江、東には山と、周囲を天然の要害に守られた都だと言うのが良くわかります。この地で6代123年間、文化の華が開いたのです。そんな百済にもやがて滅亡の時が来ました。
町の北には、白馬江を見下ろすように扶蘇山城があります
町の北には、白馬江を見下ろすように扶蘇山城があります
 百済時代には宮廷の御苑が、有事の際には最後の砦として使われたと言う扶蘇山。麓から山頂までは遊歩道がつけられ、三忠祠・竪穴式兵営址・半月楼などを見ながら登っていくことになります。所々には土塁も見られ、山城だったと言うことが実感できます。遊歩道を歩くこと30分。白馬江を見下ろす断崖の上に建つ、百花亭に着きました。ここには悲しくも美しい話が伝わっています。

 百済最後の王、義慈王の後宮に仕えていた3,000人の官女達が、「敵の手にかかるぐらいなら自ら命を絶つ」と言って下の白馬江に身を投げた。その様子が「まるで美しい花が散っていくようだった」として、後世の人が落花岩と名づけたそうです。この百花亭は彼女達を追悼するため、1929年に建てられた、と解説文は結んでいました。
白馬江の戦いの悲劇を伝える百花亭
白馬江の戦いの悲劇を伝える百花亭
 この戦闘が、教科書で馴染みの深い「白村江の戦い(663年)」です。百済から請われて半島に出兵し、共に唐・新羅の連合軍と戦った倭軍でしたが、敗退。ここに百済は滅亡、半島は新羅の時代に移ります。この時多数の亡命貴族が日本に渡り、大和朝廷の中枢として働いたと言われています。

 ここに立ってみると、第二次世界大戦時にサイパン島の断崖で、「バンザイ」と叫びながら散っていった島民達の話が思い出されました。日本に渡った百済人の血なのか、それとも追い詰められた人間の行動として普遍的なものなのかと、解説文を読みながら考えてしまいました。
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