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 最後に、この本の中で最も「目からうろこが落ちる思い」を味わったのが、倭王武が478年に宋の順帝に捧呈した上表文(救援依頼書)の読み方に関してでした。

 『この上表文で「武」は、自身の「倭国」を百済の「封国」と言う概念を持って紹介しており、(中略)。自身の「父兄」は475年頃急死しており、その遺志である「高句麗を壊滅させるため」 陛下の恩徳のあらんことを懇請する』としている。そしてこの内容が当てはまる「武」なる人物はただ一人『高句麗と戦い、475年に非業の死を遂げた百済24代蓋鹵(こうろ)王の太子、若き「斯麻君」に間違いない。』と結んでいます。
日本の高野槙で王と王妃の棺を作る:模型館ジオラマ
日本の高野槙で王と王妃の棺を作る:模型館ジオラマ
 ウーム、なるほどね。倭王「武」を雄略天皇に比する説を何となく信じていましたが、雄略天皇だと『父と兄が同時に急死した』と言う部分が上手く説明できないことは気になっていました。「倭の五王」が治めた5世紀の日本の姿は、以前謎のベールに包まれたままだったのです。でも蘇流に読んでみると、上表文の記述にも納得がいきました。

 倭王「武」の、いえ武寧王の生きた時代の日本列島はまだ民族が特定されていたわけではなかった。半島と列島の人々は同根だったように私には思えます。敢えて言えば、日本人の中には百済人の血が色濃く流れていると言えそうです。「倭」から半島へ勢力を広げていたのではなく、大陸や三韓の人々の新天地として列島があったのではないでしょうか。

 陵墓の発見と墓誌の解読が、当時の百済と日本の姿にスポットライトを当てた今、日韓両国の学者の方々が協力して、謎の古代史解明に取り組んでいただきたいものと強く願います。
雨に煙る、宋山里古墳群全景
雨に煙る、宋山里古墳群全景
 武寧王陵を去るとき李さんは、案内所と売店のある入り口の建物まで一緒に降りてきてくれ、絵葉書と栞をお土産に手渡してくれました。恐縮していると「私はここで両国の関係の深さを説明していきますから、あなたは日本でムリョワンさんのことを伝えてください」と、穏やかな笑顔が返って来ました。

 私では力不足かもしれませんが、「武寧王のことはしっかり調べてホームページで紹介します」と約束し、呼んでくれたタクシーで近距離バスターミナルに向いました。
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