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永代たたら: 弥生時代に鉄が伝えられてから室町時代まで、山の中腹で風の良く吹く斜面に炉を築く、"野たたら"で鉄を産していたが、江戸時代になると天気に左右されないよう、高殿と言う建物を作り、その中で鉄を作るようになった。これを"永代たたら"と言う。

大鍛冶:  銑(ズク)や歩ケラ(ぶけら:玉鋼とズクの中間の炭素量)を炭火で熔かして炭素分を取り除く(脱炭:だったん)。金鎚で叩き、運搬しやすいような延べ鉄(包丁鉄)にして、各地の鍛冶屋(小鍛冶)で日用刃物などに加工された。

大銅場: 大きな分銅(菅谷たたらの大銅場では200貫:750キロ)を落として、ケラを小割にする作業が行われた場所。分銅を持ち上げる動力としては、水車が用いられた。

鉄穴流し: 山砂鉄(磁鉄鉱)を含有した山(含有量1〜2%)を、"打ち鍬"と言うツルハシ状の道具で切り崩し、水と共に下に流す(これを"走り"と言う)。常に山崩れの恐れがある危険な作業だった。

ケラ: 炉底にできた鉄の塊が"ケラ(金偏に母)"。まだ炎を上げている炉を一気に壊して引き出す。一代で出来る"ケラ"は2〜3トン。鋼・鉄・銑(ズク)などが含まれている。

砂鉄: たたら製鉄の主原料となる山砂鉄は、花崗岩の風化したもので、真砂(まさ:珪酸分が高く溶けにくい)と赤目(あこめ:珪酸分が低く溶けやすい)とに分かれる。奥出雲一帯は、玉鋼を作るのに適した良質の真砂砂鉄が取れた。

山内: "たたら"集団がその家族と共に居住していた地区を総称して"山内(さんない)"と言い、菅谷たたら山内では往時43戸138人の人々が暮らしていた。山内全体を経営していたのが、絲原家櫻井家田部家など、山林を所有する鉄山師だった。

たたら: 足で踏んで送風する大きなフイゴ。転じて、フイゴを用いて「砂鉄(酸化鉄)を木炭で加熱・還元する」、日本式の製鉄法全般を指すようになった。

"たたら"集団: 古くは砂鉄と木炭を求めて、移動しながら鉄を生産していた集団が、"永代たたら"の出現で定住するようになった。 技師長の"村下"、村下の補佐役で木炭を管理する"炭坂(すみさか)"、木炭を投入する"炭焚(すみたき)"、たたらを踏む"番子"、に職業分離され、一体となって作業を行っていた。

玉鋼: 大銅場で小割にされた鉄塊は、炭素量の違いで7段階に分けられた。特級品は各地で異なる名称で呼ばれており、現在たたら製鉄で作られた最優秀鋼の名となっている"玉鋼"(総重量の約15%)は新しい呼称で、昔は使われていなかった。

天秤フイゴ: "たたら"の語源ともなった送風装置で、天秤フイゴは1691年に発明された。これを踏むのは「番子(ばんこ)」と呼ばれ、交替制ではあるが三昼夜の連続送風は過酷な労働であった。交替で何かをする時の「代わり番子」は、この作業から来ている。

走り: "走り"の長さは通常でも数キロ、場所によっては十数キロに及び、途中いくつも堰を作って微妙に水勢を変え、比重の重い砂鉄だけを沈殿させる。最後の乙池では鉄分85〜90%の砂鉄となる。

一代: 砂鉄と木炭それぞれ10数トンづつを、粘土製の炉に交互に入れ続けること三昼夜。最後に炉を壊して鉄を取り出す、この1回の作業を"一代(ひとよ)"と言った。

本床作り: "たたら製鉄"は湿気を極端に嫌う。炉の熱が地下に逃げないようにするため、その炉を築くためには地上部の3倍もの深さ(約3m)の基礎構造が必要となり、その本床作りつくりには約2ヶ月を要した。

村下: たたら場の最高責任者は技師長でもある村下(むらげ)。一子相伝の世襲で、その技術と勘が鉄の品質を左右した。
たたら製鉄関連参考書籍

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